ざくろの色」を知っていますか?

映画「ざくろの色」は1968年8月29日に公開されました。

ソビエト連邦の作品です。

ジャンルは芸術映画。

監督・脚本はグルジア出身のセルゲイ・パラジャーノフ。

主演は同じくグルジアの女優ソフィコ・チアウレリとアルメニアのバレーダンサーでもあるヴィレン・ガスチャン。

上映時間は75分。

では、いつものようにあらすじをご紹介しましょう。

「ざくろの色」あらすじ

18世紀のアルメニアの詩人サヤト・ノヴァの生涯を八章に分けて描いています。

第一章 詩人幼年時代
 幼いサヤト・ノヴァの目からみるアルメニアの暮らし。

第二章 詩人青年時代
宮廷詩人となったサヤト・ノヴァは王妃との恋。

第三章 館
王妃との恋は、茨の道となる。

第四章 修道院
サヤト・ノヴァは修道院に幽閉されてしまう。

第五章 詩人の夢
夢のなかで詩人は幼い頃の自分や両親や王妃に再会。

第六章 詩人老年時代
サヤト・ノヴァの眼差しは心に傷を負い、長年暮らした寺院を去る事を決意。

第七章 死の天使
死神がサヤト・ノヴァ胸をざくろで汚す。

第八章 詩人の死
サヤト・ノヴァの死。

カルト洋画「ざくろの色」を見て

https://youtu.be/tTeWsxa4fSM

台詞は極限まで削られています。

観客は映像と音で作品を理解する必要があります。

そうです。

カルト映画らしく難解。

鮮やかな色彩。

鮮烈で美しい絵画を見ているような錯覚に陥ります。

洋画「ざくろの色」のハイセンスな映像美からジャン=リュック・ゴダールが多大な影響を受けたことは有名です。

洋画「ざくろの色」について

洋画「ざくろの色」はモスクワやキエフなどで洋画「サヤト・ノヴァ」というタイトルで封切られましたが、ソ連国家映画委員会から難解で退廃的と激しく糾弾されました。

洋画「サヤト・ノヴァ」はセルゲイ・ユトケーヴィッチによって字幕の追加や短縮などの再編集が行われ、1971年に「ざくろの色」として再上映。しかし、検閲によっていくつものシーンが削除され、その箇所は現在でも観ることが出来ません。

カルト映画ですね。

洋画「ざくろの色」を作った監督セルゲイ・パラジャーノフとは?

1924年 1月9日、グルジアのトビリシ(旧ティフリス)で、三兄弟の末っ子として生まれました。幼少期にはバイオリンや歌、バレエ、絵画などのクラスを受講し、芸術的に恵まれた環境で育ったと言われています。

1946年、モスクワの全ソ国立映画大学の監督科に入学。翌年の夏に悪ふざけに耽っていたトビリシの学生らと同性愛の嫌疑をかけられて逮捕、投獄され、1948年に釈放。

1951年、初の短編『Молдавская сказка』を製作。

1953年からはキエフに定住し、翌年にヤーコフ・バゼリャンと共同監督でモルダヴィアの詩人エムリアン・ブーコフの物語を脚色した初の長編『アンドリエーシ』を発表します。

1957年にはテレビ用に『黄金の手』や『ナタリヤ・ウジヴィ』、『ドゥムカ』の3本の短編を製作。

1961年、戦争の悲劇を扱った長編『ウクライナ・ラプソディ』を発表。

翌1962年には宗教セクトに蝕まれるドンバスの坑夫たちを描いた長編『石の上の花』を発表。

1964年には、ウクライナの作家ミハイル・コテュビンスキイの『忘れられた祖先の影』の脚色をドウジェンコ記念キエフ映画スタジオに依頼されます。翌年に完成した同作はマール・デル・プラタ国際映画祭でグランプリを受賞。そのキエフでの封切りの際、パラジャーノフはウクライナの知識人たちに対する不当な逮捕と拘留に公に反対しました。

1966年には同作がフランスで上映されたが、タイトルは『火の馬』と改題。

同年、キエフ映画スタジオから依頼された『キエフのフレスコ画』を製作し始めましたが、前衛的なスタイルが原因となって製作は中止。

最終的に同作はパラジャーノフ自身が15分の短編として編集したものが11966年に発表されています。

1973年12月にモスクワからの旅行の帰りにソ連当局への批判的発言がもとで尋問を受け、キエフにて検挙。

有罪となり、投獄。その後、パラジャーノフの救済のために、ロベルト・ロッセリーニやフェデリコ・フェリーニ、ルキノ・ヴィスコンティ、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダールといったヨーロッパ中の映画人が抗議運動を展開。その成果もあって、1977年に釈放されました。しかし、その後もソ連当局からは危険人物と見なされ、1982年2月には家宅捜査を受け、トビリシで再び逮捕されましたが、無罪となって11月に釈放されています。

1984年にグルジア民話を脚色した『スラム砦の伝説』を製作、16年ぶりに映画監督として復帰します。

この作品は、ヨーロッパでも高く評価されました。

1985年、ミハイル・ゴルバチョフ書記長就任後、ペレストロイカによってパラジャーノフにも自由な映画製作が可能になりました。

1988年、『アシク・ケリブ』はヴェネツィア国際映画祭やニューヨーク映画祭に招待され、その独自性が国際的な賞賛を受けます。

1989年、自伝的作品『告白』を準備していましたが、肺と心臓の疾患で入院。1990年7月21日、肺炎により66歳で死去。

カルト洋画「ざくろの色」について思う

セルゲイ・パラジャーノフは共産主義国で生まれ育ち、映画監督としては恵まれませんでした。

度重なる投獄とソ連当局との軋轢の為、。映画化されなかった7本の脚本が残っているそうです。

セルゲイ・パラジャーノフが西側で生まれていたら、どんな人生だったかは想像もつきません。

芸術と政治はいつの時代も切り離して考えて欲しい。

でも、こうして彼の作品はこれからも未来永劫にカルト映画として語り継がれる。

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